阜 新 炭 鉱 万 人 坑 (3)

 阜新炭鉱万人坑(3) 
    ⇒(参考)阜新炭鉱万人坑(1)…2009年の訪問記録
    ⇒(参考)阜新炭鉱万人坑(2)…2017年の訪問記録
遼寧省阜新市  

 1933年に熱河省を占領した日本は、1936年10月に満州炭鉱株式会社阜新鉱業所を設立し、阜新の石炭を大規模に搾取し始める。そして、1936年から1945年8月までに2528万トンの石炭を略奪し、7万人もの中国人労工を死亡させた。その結果として、新邱・興隆溝・城南・五龍南溝・孫家湾などに満炭墓地という名の大規模な万人坑(人捨て場)が残された。
 そのうち孫家湾にある満炭墓地(万人坑)に阜新炭鉱博物館が早くから開設され、阜新炭鉱における惨劇を人々に伝えてきた。その阜新炭鉱博物館で、巨大な万人坑遺跡陳列館(資料館)が新たに建設されるなど大規模な拡張・改装・整備が十数年前から進められ、新しい博物館=阜新万人坑死難鉱工記念館として2015年に竣工・開館している。
 その新しい記念館を2017年に訪れ確認しているが、それから8年後の2025年に再訪した。その間に記念館の施設に大きな変化は無いようだが、館長が張宝石さんから常天通さんに代わっていて、常天通新館長が迎え入れてくれた。
 それで、2025年に新記念館を再訪した際の、私にとって一番の驚きは、万人坑遺跡陳列館(資料館)の展示室内に、私の著書だけをずらりと展示し紹介する専用の一画が設けられていたことだ。日本人が執筆した、中国本土における中国人強制労働に関わる書籍は、(説明などが断片的に記述されている一部の書籍を除けば)私の著書以外には無いので(あれば、教えてもらえると有り難い)、私の著書だけが展示されることになったのだと思われる。そして、私の古くからの友人である趙春芳元館長の推薦や後押しもあったのだろうとも思う。ともあれ、とても嬉しく光栄なことだ。

現地訪問・写真撮影 2025年6月18日  
 阜新万人坑死難鉱工記念碑
 阜新万人坑死難鉱工記念館の広大な敷地のほぼ中央部に位置する高台(丘)の上に、この巨大な記念碑が建立されている。記念碑の骨格は建立当初から変わっていないが、表裏に刻まれる文字や表面の装飾(意匠)は、さまざまな曲折を経ていろいろと変遷している。
 常天通館長と劉鵬遠さん
 常天通館長(左)は、趙春芳元館長と張宝石前館長の後を継いで2024年に阜新記念館の館長に就任している。その右隣に立つ劉鵬遠さんは北票死難鉱工記念館の元館長で、この時(2025年6月)の阜新訪問に同行してくれた。

 犠牲者追悼式
 阜新炭鉱の強制労働で犠牲になった7万人もの中国人労工を追悼するため、記念碑の前で、花を供え黙祷する。

 阜新万人坑遺跡陳列館-正面入口
 新設の資料館として2015年に竣工・開館した阜新万人坑遺跡陳列館。広大な館内に多彩な展示が繰り広げられ、阜新炭鉱の惨劇を伝えている。

 阜新万人坑遺跡陳列館-展示室
 写真中央に見える絵画の下に書籍の陳列棚がある。その陳列棚の中に、私の著書と、著者を紹介する一文が収納され展示されている。

 阜新万人坑遺跡陳列館-書籍の陳列棚
 展示室内に設置された専用の陳列棚の中に私の著書6冊が展示されている。たくさんの書籍がまとめて展示される書棚などに私の著書もその一部として入っているという記念館や資料館などは他にもあるが、私の著書だけが専用で展示される場が設けられているのは阜新記念館が初めてだ。

 抗暴青工遺骨館-正面入口
 1942年8月25日に阜新炭鉱に連行されてきた300名余の特殊労働者(捕虜にされた兵士)は、9月2日の夜に集団脱走を決行する。しかし逃走は失敗し、再び囚われた特殊労働者は、そのあと集団虐殺された。その遺体がまとめて埋められた現場(人捨て場)が抗暴青工遺骨館の中に保存されている。

 抗暴青工遺骨館-全面ガラス張りの部屋
 逃走に失敗し集団虐殺された300名余の特殊労働者が埋められた現場は、抗暴青工遺骨館の中に設営された全面ガラス張りの部屋の中に密閉され保存されている。それで、念押しになるが、現場(人捨て場)が元々ここにあり、その発掘現場をそのまま保護し保存するため、抗暴青工遺骨館の建物が後から建設されている。

 抗暴青工遺骨館-発掘現場(人捨て場)
 全面ガラス張りの部屋の中に、集団虐殺された特殊労働者の遺骨が保存されている。特殊労働者は、捕虜にされたあと労工として徴用された兵士(軍人)たちのことであり、阜新炭鉱には、合わせて9300名余の特殊労働者が徴用されている。

 抗暴青工遺骨館-発掘現場(人捨て場)詳細
 遺骨は何層にも折り重なっている。下あごも含め頭部全体がそっくり残り、上下とも歯並びがしっかりしている遺骨が多いのは、屈強な若者が犠牲になっているからだろう。そして、その誰もが口を少し開け苦しそうにしているように見える。

 死難鉱工遺骨館-北坑
 集団埋葬地の中にある、北坑および南坑と呼ばれる2カ所の発掘現場を保護し保存するため、1968年に最初の死難鉱工遺骨館が建設された。この写真で見ているのは北坑と呼ばれる発掘現場で、2015年に新たに建設された死難鉱工遺骨館の中に設置された全面ガラス張りの部屋の中に密閉保存されるようになった。

 死難鉱工遺骨館-北坑
 北坑は比較的平坦な発掘現場で、長さ13メートル、幅3.5メートル。深さは1メートル足らずだ。そして、そこに58体の遺骨が横たわっている。それで、死難鉱工遺骨館は、北坑および南坑と呼ばれる2カ所の集団埋葬地発掘現場が元々あった場所に、発掘現場を元々の状態に保持したまま建設されている。

 死難鉱工遺骨館-北坑
 ここに埋葬されているのは、阜新炭鉱の坑内におけるガス爆発・落盤・水没などの事故や病気や過労などで命を落とした中国人鉱工(労工)だ。

 死難鉱工遺骨館-北坑
 この様子は、日本の統治時期における中国人鉱工(労工)の悲惨な運命を映し出している。

 死難鉱工遺骨館-南坑
 全面ガラス張りの部屋の中に、南坑と呼ばれる集団埋葬地発掘現場が保存されている。日本は、阜新を支配した1936年から1945年までの10年間に2528万トンの石炭を略奪し、その間に7万人もの中国人鉱工(労工)を死亡させた。

 死難鉱工遺骨館-南坑
 集団埋葬地内の一画を深く掘り下げて発掘された南坑は、東側が高く西側が低い。この、長さ11.1メートル、幅3.5メートル、深さ約1メートルの発掘現場に52体の遺骨が横たわっている。

 死難鉱工遺骨館-南坑
 南坑の犠牲者も、北坑の犠牲者と同様の運命を歩まされている。彼らは、炭鉱で働く鉱工(労工)として中国全土から集められた。そして、炭鉱内の事故などで死亡した犠牲者は、各鉱区の死体置場(倉庫)からこの集団埋葬地に集められ、まとめて埋められた。

 死難鉱工遺骨館-南坑
 ある遺骨は、埋葬される時点ではまだ息があった鉱工(労工)の遺骨であることが分かる。つまり、衰弱や怪我などのため労働力として不要と見なされ、ここで生き埋めにされ殺害されたのだ。




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