撫 順 炭 鉱 万 人 坑(2)

 撫順炭鉱万人坑(2) 
    ⇒(参考)撫順炭鉱万人坑(1)…2017年の訪問記録
遼寧省撫順市  

平頂山事件と撫順戦犯管理所
 遼寧省の撫順は、歴史に関心を寄せる日本人には比較的良く知られている町であり、撫順を訪れる日本人は少なくないようだ。その撫順で有名なのは、平頂山事件と撫順戦犯管理所の二つだろう。
 そのうち平頂山事件は、1932年9月16日に平頂山村の住民ら3000人余を日本軍が集団虐殺した暴虐事件だ。そして、その発端は、事件前日の9月15日に中国抗日義勇軍が撫順炭鉱を襲撃したことだ。
 当時の撫順炭鉱は、満鉄(南満洲鉄道株式会社)が経営する超巨大炭鉱で、日本による「満洲」(中国東北)侵略・経済略奪の象徴的存在だった。その撫順炭鉱を襲撃するという反抗に対する見せしめとしての全住民虐殺が平頂山事件だ。
 一方、撫順戦犯管理所は、日中15年戦争の間に中国人民に対し暴虐の限りを尽くした日本人戦犯をまともな人間に生まれ変わらせた(更生させた)「監獄」として知られている。
 1950年にソ連から中国に引き渡された日本人戦犯969名は、収監された撫順戦犯管理所で人間として大切に処遇され、暴力や威圧や恐怖とは無縁の環境の下で6年間にわたり指導を受ける。そして、自らが犯した中国に対する侵略犯罪を自覚し、真摯に反省し、被害者である中国人の苦しみを心底理解できるまともな人間に生まれ変わることができた。人の心を取り戻した日本人戦犯の大半は起訴猶予とされ、罪に問われることなく1956年に日本に帰国している。
 平頂山事件と撫順戦犯管理所は、中国では重要な歴史として認識され大切に扱われている。平頂山事件の現場には壮大な記念館(撫順平頂山惨案記念館)が開設され、虐殺現場を完全な状態で保存するとともに広大な展示館(資料館)を整備し、膨大な史料に基づき平頂山事件の実相を正確かつ丁寧に伝えている。
 一方、撫順戦犯管理所は、失われていた一部の施設もほぼ完全に復元され、日本人戦犯を収監していた当時の姿を完全に再現する形に整備され、重要な史跡として公開されている。そして、訪れる人々に、膨大な史料を用いて当時の戦犯管理所の状況を伝えている。

撫順炭鉱
 前項で説明しているように、遼寧省の撫順では、平頂山惨案記念館と撫順戦犯管理所が重要な史跡として大切にされ、完全に整備され公開されている。しかし、一方で撫順炭鉱は忘れ去られた存在になっている。撫順炭鉱の巨大な露天掘り鉱を一望することができる「展望台」も、平頂山惨案記念館と撫順戦犯管理所の中間にある単なる休憩所くらいにしか認識されていない。
 巨大な露天掘り鉱で知られる撫順炭鉱は、1905年から1945年まで日本が支配し、満鉄(南満洲鉄道株式会社)の経営により2億トンもの石炭を略奪している。その影で、石炭採掘の強制労働により25万人もの中国人労工を死亡させている。そして、この膨大な数の犠牲者は炭鉱周辺の各所に捨てられ多数の万人坑(人捨て場)が形成された。
 そんな惨劇から二十数年後の1971年に撫順市階級教育展覧館が、撫順に残されている万人坑を広範に調査し、36カ所の万人坑を確認している。その結果、有力な炭鉱(坑口)があり労工が大勢いたところには、その全てに万人坑が存在することが明らかになった。
 また、1998年末から2000年末にも調査が行なわれ、勝利鉱の南にある劉山邱楼子や、老虎台鉱の南にある青草溝など規模の大きい万人坑8カ所が調査された。しかし、その時点で、1971年の調査で確認された万人坑の多くが既に消滅していた。
 そして現在では、撫順には万人坑は1カ所も残されていない。2000年代以降に過激なほどに急速に進んだ都市開発・都市基盤整備などにより全ての万人坑が消滅させられてしまったのだ。
 2025年6月17日に私たちが撫順を訪れた際に、撫順市社会科学院・元院長の傅波教授が再び案内してくれた青草溝には工場の建物などがずらりと建ち並び、青草溝万人坑は姿を消していた。
 3000人の住民が虐殺された平頂山事件の現場が完全な状態で大切に保存されている撫順で、25万人もの労工が犠牲になった撫順炭鉱における強制労働の史跡=万人坑が消滅し完全に忘れ去られていることが残念でならない。中国政府と撫順市政府には、撫順炭鉱万人坑の復元を要望したい。

現地訪問・写真撮影 2025年6月17日  

 撫順平頂山惨案記念館-入口
 記念館内の改装工事のため入場できなかった。中国人民抗日戦争および反ファシズム戦争勝利80周年の節目(2025年9月3日)に向けた大幅な改装が行なわれているのだと思われる。対応してくれた記念館職員と共に記念館の入口で記念撮影。

 撫順平頂山惨案記念館-事務棟と資料館
 記念館の入口から構内を見ると、広大な庭園の奥に事務棟と資料館が見える。2007年に大々的に改修された記念館は、大都会にある超一流ホテルに引けを取らない「華麗」な施設に変貌している。

 撫順戦犯管理所-事務棟入口
 戦犯管理所内を見学し、趙虎所長(代表)との懇談を終えたあと、趙虎所長や通訳の徐銘さんらと共に戦犯管理所事務棟の入口で記念撮影。

 撫順戦犯管理所-向抗日殉難烈士謝罪碑
 元日本人戦犯が帰国後に結成した中国帰還者連絡会(中帰連)が1988年に建立した謝罪碑に花を供え、抗日殉難烈士を追悼する。

 撫順戦犯管理所-監房棟
 旧日本軍監獄を改装して作られた戦犯管理所に、このような監房棟が何棟も並んでいる。写真の奥に小さく見える白っぽい建物は監視塔。

 撫順戦犯管理所-監房棟内部
 監房棟建屋の中央部に配置されている通路(廊下)の両側に、日本人戦犯らを収容した監房がずらりと並んでいる。

 撫順戦犯管理所-監房
 中央の「土間」を挟んで、寝床を兼ねる板の間が両側に配置され、人数分の寝具(布団)が整然と並んでいる。当時は、一つの監房に十名から十数名が収監された。

 撫順戦犯管理所-溥儀が収監されていた監房
 清朝最後の皇帝であり、後に「満州国」皇帝になった溥儀も戦犯として収監され、真人間に生まれ変わった。身の回りのことを何一つできなかった溥儀が自ら裁縫をしている像が、溥儀が収監されていた監房内に置かれている。

 撫順炭鉱-西露天掘り鉱
 西露天掘り鉱の東端にある「展望台」から西露天掘り鉱を見渡す。撫順炭鉱の西鉱は1901年に開山し、1914年から露天掘りが開始された。露天掘り鉱の大きさは、東西方向に6.6km、南北方向に2km。深さは400mを超える。

 撫順炭鉱-西露天掘り鉱を走る貨車
 元々の地表(地面)に近い露天掘り鉱の上部の周囲に鉄路(線路)が敷設されている。この時も、石炭を満載する貨車が走っているのが見えた。

 撫順炭鉱-青草溝万人坑跡に至る小道
 青草溝(窪地/低地)の万人坑跡を見下ろすことができる「台地」に通じる道路。大型観光バスは通行できないので、手前でバスを降り、歩いて「台地」に向かう。

 撫順炭鉱-青草溝万人坑跡を垣間見る
 細い道路を歩き先に進むと、周囲に生い茂る雑木や雑草の合間から、青草溝に建ち並ぶ工場の建物などが垣間見える。

 撫順炭鉱-青草溝万人坑跡を見渡せる「高台」
 青草溝を見渡すことができる「台地(高台)」の端を通る道路。道路脇の金網の先(写真右側)に青草溝の窪地(低地)が広がる。

 撫順炭鉱-青草溝万人坑跡
 かつては万人坑が広がっていた青草溝に工場などの建物が建ち並んでいる。青草溝万人坑も、2000年代以降の経済最優先の中国社会の下で消滅させられた。

 撫順炭鉱-青草溝万人坑跡
 青草溝万人坑を押しつぶして建設された工場の屋根越しに見えるのは、老虎台(高台)に建設された集合住宅群。

 撫順炭鉱-青草溝万人坑跡
 1998年から2000年にかけて実施された調査で確認された青草溝万人坑も、都市開発の大波の中で消滅させられた。今、撫順には、たった一つの万人坑すらも残されていない。




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